ネッドくんだけは、YouTubeに渡せなかった
全部、機械に任せてきたのに。
YouTubeでアンパンマンを見終わって、そろそろ寝る時間。
なのに息子は布団の上で、薄い一冊の絵本を持ってくる。
「ネッドくん、読んで」。
同じ画面で、プロの朗読だって流せるのに。
うちは、だいたい機械がやってくれる
正直に言うと、我が家はかなりの部分を、機械に任せている。
煮込みはホットクックが勝手に仕上げ、コーヒーもパンも、機械が淹れて、焼いてくれる。
手をかけない暮らしを、私はわりと本気で選んできた。
手抜きじゃなくて、最適化。
と、いちおう言い張っている。
絵本だって、任せられるはずだった
だから、絵本の読み聞かせだって、本当は任せられるはずだった。
YouTubeを開けば、読み聞かせの動画がいくらでも出てくる。
やさしい声の、プロの朗読。静かなBGMつき。
ページをめくる音まで入っている。
私が一日の終わりに、くたびれた声を絞り出す必要なんて、どこにもなかった。
任せない理由は、本当は、ひとつもなかったのだ。
ネッドくんは、買った本じゃない
その絵本は、「よかったね、ネッドくん」という。
よかった、でも大変、でもよかった
と、幸と不幸がくるくる入れ替わっていく、ふしぎな話。
これは、本屋で選んで買った一冊じゃない。
図書館が古い本を手放すとき、たまたまもらってきた除籍本。
なのに、お金を出して選んだどの本より、息子はこれにハマっている。
なんでだろう、と今でも少し、ふしぎに思う。
声を、使い切ったあとで
やっかいなのは、疲れた平日にこそ、求めてくることだ。
寝る前なんて、もう一日分の声を、とっくに出し切っている。
「またこれか……」と、正直、思う。
一度、やんわり交渉を試みたことがある。
「今日は違う絵本にしない?」
そうしたら息子は、いそいそと本棚に向かって、昆虫の図鑑を持ってきた。
カブトムシとカマキリがびっしり並んだ、あの分厚いやつを。
どう読むのよ、これ。
結局その夜も、私はネッドくんのページを開くことになった。
それでも、読みはじめると
しぶしぶ、薄い表紙をめくる。
乗った飛行機は壊れるし、よかった、と思ったら、パラシュートには穴があいている。
でも、よかった。下には、干し草の山があった。
息子は、この場面がいちばん好きだ。
ページをめくる前から、もう笑う準備をしている
。
布団の上で、落ちていくページに合わせて、少し前のめりになる。
そして、ぼふっと助かったところで、決まったように、けらけら笑う。
何十回読んでも、毎回、初めて助かったみたいに笑う。
「よかったねえ」のセリフを、私より先に言ってしまう夜もある。
もちろん、次のページをめくれば、また「でも、たいへん」が待っている。
それでも、読んでいるうちに、次はどっちに転ぶんだっけ、と自分のほうが続きを知りたくなっている。
子どものために読んでいるはずが、いつのまにか、読んでいる私が引き込まれていく。
角の丸くなった表紙は、二人でめくった手あとで、少しくたびれている。
「またこれか」と思っていたはずなのに、読み終わるころには、その気持ちは、もうどこかへ行っていた。
任せてみた、あの夜
一度だけ、YouTubeに任せてみた夜がある。
疲れきっていて、もう声を出したくなくて、動画を流して、隣に寝転んだ。
部屋の電気はもう消していて、画面の光だけが、天井で青く揺れていた。
やさしい声が、ちゃんとネッドくんを読んでくれている。
ページをめくる音まで、スピーカーの向こうで律儀に鳴る。
私の下手な読み方より、きっと上手い。
息子は途中で、指をくわえたまま、寝息を立てはじめた。
なのに、その寝息を聞きながら、なぜか私のほうが、少し寂しくなった。
渡せる時間と、渡したくない時間
煮込みは、機械に渡せた。
コーヒーも、パンも、なんの未練もなく渡せた。
そのぶん空いた時間で、私はちゃんと楽になったと思う。
でも、布団の上のあの数分だけは、渡せなかった。
たぶん、上手い下手の話じゃない。
あの子はただ、「ママがいい」と言う。
プロの声でもなく、くたびれた私の声のほうを、選ぶ。
会社では、私の代わりなんて、いくらでもいる。
家のことも、たいていは機械が代わってくれる。
それなのに、布団の上のあの数分だけは、誰にも代わってもらえない。
まあ、代わってほしくないのは、たぶん私のほうなんだけどね。
熱を出した子を、自分の手で迎えに行きたかった日があった。
あの「自分が行きたい」と、今夜の「自分が読みたい」は、たぶん地続きだ。
全部は手放せる。でも、ぜんぶは手放したくない。
よかったね、でも
ネッドくんの話は、よかった、でも大変、でもよかった、と揺れ続けて終わる。
私の夜も、たぶん同じだ。
めんどくさい、でも読む。
声はもう出ない、でも開く。
答えは、今夜も出ないままだった。
今夜もきっと、また昆虫図鑑を持ってくる。
それでも私は、ネッドくんのページを探してしまう気がする。
しべ。



こんにちは。
言葉にできないなんとも言えない気持ちになっちゃいました。
ネッドくん、私も好きです。
ママと一緒に「よかったね」と微笑むお子さんの姿を思い浮かべました。ステキな時間ですね。